淀川河川事務所

明治18年(1885年)明治大洪水 詳細解説

天気概況

明治18年、6月上旬より続いた降雨に加え、6月15日には北朝鮮北部に現れた低気圧(748mm)が、17日には瀬戸内海西部に現れた低気圧(753mm)が、相次いで大阪付近を襲いました。2度にわたる低気圧で降り続いた雨は15日夜半から豪雨となり、17日夜半までに淀川(大阪付近にて観測)で計183.3mmに達する雨量となりました。
さらに雨は6月25日頃から再び降り始め、29日から本格的となり、7月1日には暴風も加わって、淀川の水位上昇に追い打ちをかけるかたちとなりました。

淀川の洪水・決壊状況(1)

さきの低気圧によって増水した淀川は、6月17日午後8時30分には枚方で4.24mの水位となり、左岸枚方駅北岡新町(現・枚方市)の市側天野川堤防が決壊するとともに、三矢村地先の淀川堤防が決壊しました。さらに破堤箇所の水勢は勢いを増して決壊箇所をえぐり、19日にはその傷口が145.5mに拡大、浸水は大阪市にも達し、なお河内平野から大阪市に流入している支川寝屋川堤防(通称「徳庵提」)にも迫り、全堤防が破壊の危機にさらされました。  
そこでこの濁水を本川に戻すため、東成郡野田村(現・都島区網島)の堤防を切開して淀川に放流(俗称「わざと切れ」)、また堰止め工事も進められました。

淀川の洪水・決壊状況(2)

しかし6月25日からの再度の暴風雨により枚方水位は2.6mに達し、三矢村淀川字安居堤防と新町村天野川堤防が決壊、濁水はまた大阪市へと氾濫していきます。堰止め工事がまだ7割方しか完成していなかったため伊加賀堤防は再び決壊し、さらに宇治川、木津川、桂川など各支川の堤防が次々に切れました。ことに寝屋川の水勢は強く、枚方切れの溢水と相まって「徳庵提」を破り、若江、河田、渋川(中河内郡)に侵入、大和川右岸にまでおよぶ一大湖水を現出させました。また淀川筋左岸では伊加賀のほか、船橋川、穂谷川河口付近、右岸では桧尾川3カ所、京都府下では宇治川筋槙島村、向島村、納所村、木津川筋では右岸岡崎村(加茂町)、井手村(井手町)、多賀村など計46カ所の堤防決壊を数えるなど、淀川本支川はほとんど決壊しないところがなかったようなありさまでした。

洪水による被害

さきの低気圧による洪水では、茨田郡全部(北河内郡)と讃良郡7カ村、東成郡27カ村(城東区・旭区・都島区)に濁水が溢れ、計113カ町村、戸数約9,900、反別約4,452.6haが水中に没しました。  
さらに再び襲った暴風雨により被害は拡大、大阪市街の浸水町数は東区28、南区46、西区174、北区92の各町で計340町におよび、大阪城~天王寺間の一部高台地域を除くほとんどの低地部が水害を受け、被災人口は276,049人にも達しました。また、808橋といわれた大阪の橋は30余橋が次々に落ち、橋によって通行の要衝を連絡していた市内の交通は完全にマヒ、市民生活は困難を極めました。
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