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概要 |
福井市では、すでに江戸初期から上水道が整備されていた。それは、福井藩の藩祖である結城秀康が、北ノ庄城を築城するにあたって家老である本多富正に芝原用水を造らせ、武士や住民の飲料水にあてたほか、城濠の水や灌漑のために、九頭竜川から導水したものである。芝原用水は、お上水あるいは浄水とも呼ばれていた。福井藩では、上水奉行を置いて管理させた。この上水奉行は家老直属で、その配下に「大目付」や「御長柄の者」などの役人を置き、常時用水筋を巡視させた。そればかりか、用水筋の庄屋、長百姓などの村役人に、その地掛内の取り締まりについて責任を負わせていた。
藩政が廃止された後、明治18年(1885)頃までは委員制によって用水管理がなされていた。明治23年(1890)に「水利組合条例」が公布されるにいたり組合が結成され、同26年(1893)3月組合規約を定めて管理するようになった。福井市においても衛生管理上から、この用水の清浄化に努め、水路巡視2人を置いて常時巡回取り締まりを行った。また、3人の常用夫を置いて各受け持ち区域を掃除させ、春秋2期には約300人を使役して川掃除を行った。このように厳重な管理を進めていたにも拘わらず、しばしばコレラや腸チフスなどの伝染病が蔓延し、多数の死者を出した。
大正7年(1918)、上水道設置の機運が高まるなか、福井市では「市政改良事業調査会」を設置し、学識者を顧問とし、専任の技師を置いて調査研究を進め、翌8年(1919)8月に水源を足羽川左岸の木田村(現福井市)一本木地区の地下水に求めることに決定した。そして、大正9年度から12年度までの4ヵ年継続事業として水道事業が進められ、14年(1925)3月工事が完了した。
福井市では、戦災や震災といった大災害を契機に上水道事業の見直しと拡張が進められ、生活様式の変化に伴う生活用水の需要増にも対応するよう、昔から利用している芝原用水と併せて地下水利用による水資源確保が図られた。 |
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水道普及率 |
九頭竜川流域の水道は、市域においては90%以上が上水道であるが、町村では簡易水道が50%程度占める。また、大野市では一部に専用水道が敷設されている。
平成10年(1998)3月現在における九頭竜川流域の各市町村別水道普及率は、表1.3.20のとおりで、地下水の豊富な大野市の35.4%、池田町77.9%、美山町の81.4%を除き、90%以上の普及率となり、春江町では100%である。 |
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