大戸川の歴史

大戸川の歴史

 奈良や京都に近い大戸川流域は、古くから瀬田・栗東方面や山城・宇治方面、信楽を経て伊賀・伊勢方面へ抜ける交通の要所であり、近畿の歴史や文化と深く関わってきました。それは、この地域に紫香楽宮跡をはじめ、多くの史跡が残されていることからもうかがい知ることができます。

川名「大戸川」のおこり

現在は、大戸川本川は上流から下流まで同一の名称「大戸川」(だいどがわ、だいとがわ)と呼ばれていますが、かつては流域のそれぞれで信楽川、雲井川、田上川、黒津川など、独自の呼称をもっていました。

「大戸川」の名は宝永4年(1707)に上田上の牧村・中野村において河道が現在の田上山地の山裾に付け替えられて以降、それまでの「田上川」から「大戸川」と称されるようになったとされています。
また、流域最大の滝、不動の滝は、別名「大戸の滝」といい、江戸時代の書物には「大塔滝」(『淡海録』1697年)、「滝」(『近江興地志略』1734年)として紹介されています。このようなことから大戸川はもともと、不動の滝あるいは牧村・中野村あたりでの呼び名であったようです。
「大戸」の意味するところについては、大きな渓谷、滝あるいは水が激しく流れる所(あるいはその入口)などが考えられていますが、いずれにせよ大戸川の流れに深く関わる地名です。

洪水の歴史

古代から乱伐され、はげ山となった田上山

 大戸川上流の上田上地区は、交通の利便性の良さに加えて、田上山地一帯の美林が注目され、持統天皇の藤原宮(694年)や元明天皇による平城京(710年)の造営、東大寺、興福寺などの南都七大寺の建立に大量の巨木が次々と伐採されました。
伐りだされた木材は、大戸川から瀬田川、宇治川を経て、木津川をさかのぼり、泉津(現在の木津)から陸路を奈良まで運ばれたと記録されています。
 田上山はこうした大事業に貢献した一方で、その後も森林伐採が続きはげ山となったのです。

たびたび氾濫を繰り返す大戸川~水七合に砂三合

森林の伐採によって山肌が荒れ、むきだしになった花崗岩が風化した田上山からは、大雨のたびに大量の土砂が流れ出しました。そのため、大戸川は「水七合に砂三合」といわれてきました。
土砂は川底を上げ、大戸川ではたびたび氾濫を繰り返してきました。流域の人々にとって田畑の恵みをもたらす一方で、幾度とない氾濫は水との闘いの歴史でもあります。
田上の土砂は大戸川ばかりでなく、大戸川が合流する瀬田川や宇治川、さらに淀川にまで影響を与えました。
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治水事業の歴史

江戸時代に始まった治水事業

淀川水系における洪水対策については、古くは江戸時代に水源山地の樹木伐採を制限・禁止した「山川掟の令」が出されています。また、瀬田川の川ざらえや土砂をせき止める大工事も行われてきました。
 
明治に入ると、政府がオランダから招いたヨハネス・デレーケら治水技師によって、水源山地の砂防事業にも着手されるなど、近代的治水事業が本格的にスタートしたのです。