淀川河川事務所

淀川舟運の歴史

淀川では、古来より主要な交通手段として舟運が発達してきました。奈良時代には、聖武天皇が恭仁京から難波宮へ遷都をした際の物資輸送は舟運によって行われました。平安時代に執筆された『源氏物語』にも、光源氏が淀川を船で下る様子が描かれています。
時代は下り、豊臣秀吉によって城下町となった伏見と大阪とを結ぶ大量輸送手段として舟運は発展していき、伏見港周辺は舟運の拠点として栄えていきます。
江戸時代には、大阪と伏見との間には三十石船と呼ばれる船が往来し、人の移動の手段として使われるようになります。枚方付近では、三十石船の乗客に向けて小舟から飲食物を販売する「くらわんか舟」が有名でした。

三十石船とくらわんか船

江戸時代の三十石船とくらわんか船(枚方市教育委員会提供)

『淀川両岸一覧』

江戸時代の舟運と街の姿を表した『淀川両岸一覧』

明治時代になると蒸気を動力とした外輪船が淀川で運航されるようになりました。オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの協力のもと、蒸気船が航行できる水深を確保するために、水の流れを集める水制工が設置されました。また、新淀川が開削された際、水位差が生じた大阪市内河川との間を船が行き来できるようにするため、船のエレベーターの役割を果たす毛馬閘門が設置されています。

淀川を航行した外輪船

明治時代に淀川を航行した外輪船

水制工とワンド

水制工は現在ワンドを形成している

 しかし、昭和初期以降に鉄道や道路などの陸上交通網が整備されていくにつれ、舟運は徐々に人々の暮らしから遠ざかっていきました。
淀川を通航する船舶数の推移

淀川を通航する船舶数は、全盛期の1/20にまで減少している。

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三栖閘門の歴史

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