九頭竜川流域誌


1.4 十郷用水

(1) 用水区域
  十郷用水は、鳴鹿山鹿において九頭竜川に大堰所を設け、そこを取水口として水を引き、川北の本庄、新郷、大味、溝口、細呂木、荒井、兵庫、大口、関、新庄の十郷の地域を灌漑するための用水で、そのことから名前が付けられた。また十郷用水は、十郷の地域を養うほか、この用水を水源とする新江・高椋・磯部・春近などの大小幾つかの用水があるため、坂井平野のほとんど全域を養う越前最大の用水である。
  鳴鹿大堰所で取水された用水は、新江井口で五領ヶ島の地域を養う五領ヶ島江(新江用水)を分流し、楽間井口、大島井口では高椋・磯部地域を養う用水を分け、神明井口では大部分を十郷に引くとともに、高椋・磯部の一部を灌漑する水を分けていた。
  十郷用水は、舟寄地区の横落堤の堰で、十郷の各村々に引かれる幾つもの用水に分けられる。すなわち左岸では若宮江・東長田江・徳分田江・上兵庫江に、右岸では河和田・長屋などの村々を養う五ヶ庄・五本江を分け、さらに十郷用水の本流は下新庄地籍にある御定水門において、下兵庫江・寄町江・五郎丸江・大口中西江・中江・五分市江などの諸江に分けられ、各村々に水を供給していた。
(2) 用水の管理
  十郷用水も芝原用水と同様に、九頭竜川扇状地の自然分流をもとに整備されてきたものである。十郷用水は、上金屋の土肥家に伝わる「十郷用水由緒書」や本庄春日社などの諸古文書によると、平安期末に追捕使藤原国貞が同社を勧請して十郷に十社を祀り、この地の600余町歩(595ha)を春日大社および興福寺に寄進し、その荘園の水路を整えたことに始まると伝えられている。
  このように十郷用水は春日社の神領の水路であったことから、同社の社家であったと伝えられる土肥家、伊井家、大連家が実権を握っていた。
  十郷用水は、領主にとっても稲の豊凶に関わるものであり、中世以後ともなると領主が用水の維持管理について力を注いだ。
 永正12年(1515)には、朝倉孝景の助力によって鳴鹿の用水取水口の改修工事が行われている。次いで、天文6年(1537)には規約を定めて井料米、樋などの寸法等を規定している。
  天正6年(1578)柴田勝家は、「就十郷井水普請条々」を定め、十郷用水の普請は郷中の村人が共同で普請すること、戦乱で村人がいなくなった所は状況に応じて配分を免除すること、非分の者や難渋の在所があれば井口を閉ざし分水を停止することなどを定め、用水の管理運営の基本とした。

図3.3.2十郷用水下流部 図3.3.3十郷用水上流部
(3) 井守役
  井守役は、古来からの定法を家伝とし、これを守り、それに従って十郷用水の管理運営を行うものである。
  井守役としては、下番村の大連家、上金屋村の土肥三五左ェ門家、南横地の七右ェ門家が務めた。その後、大連家が東大連家と西大連家に分かれ、井守役も正徳(1711〜15)の頃には両大連家と土肥家、そして坪之内村の藤井与左ェ門家が務め、さらに享保(1716)以降は両大連家と土肥家、および定重村の吉田弥三右ェ門が務めた。このように、一部には出入りがあったものの、大連家と土肥家は代わらず、大体において四家が井守役を務めてきた。
(※丸岡町史 p.397〜400)


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