(1) |
外国人技師による治水事業 |
明治時代初期の高屋より正善にいたる春江は、新堤の築造を一時中止したため、無堤部が約3,000間(5.45km)にもわたっていた。そのため洪水のたびに越水し、毎年のように坂井郡一帯が浸水していた。その区域は、ほぼ3,000町歩(2,975ha)の広さに達し、低地においては数日間浸水するというありさまであった。この状況を重くみて、明治4年(1871)3月に築堤を継続着手しようとしたが、時代変革による様々な困難に遭遇したため、着工にいたらなかった。その後、明治12年(1879)より一部の治水工事がなされた。この工事は、明治政府が招聘したオランダ人技師であるエッセル工師の設計に基づいて、九頭竜川本川筋灯明寺、安沢地先および足羽川筋福井市内などに護岸および水制として沈床工事を施工し、これによって水勢の衝突を避け、河岸や堤脚の決壊を防ぐものであった。本工事は、九頭竜川本川における新工法採用の先駆けとなり、同時に以後の治水工事を進める上で大いに手本となった。この工事は、明治17年(1884)までの5年間を費やした。
また、河口の三国港においては、土砂によって港口が閉塞し、船舶の航行が困難になるとともに港が衰微することを恐れ、明治8年(1875)内務省土木寮に申請し、これもエッセル工師の設計に基づいて、同港有志者の醵金を用いて九頭竜川の流下を良くするために、突堤を250間(454.5m)築造することとなった。しかし、その償却に関する手続きに長年月を要したことや、港口水筋の付替えのために予算の増額などの措置を講ずる必要もあって、ようやく明治11年(1878)5月に着手するに至った。施工は土木局吏員が監督にあたり、また、エッセル工師の後を引き継いだデ・レーケ工師も、たびたび巡視するなど国家的事業並みに取組んだが、激しい北海の風浪によって数度決壊した。そのため、予算の増額あるいは工事の中止など、幾多の困難が発生し、ついには内務省より御用掛古市公威を派遣して、未竣功の部分を直轄施工するに及んで、明治15年(1882)11月にようやく工事を完了するに至った。 |
(2) |
水理・水文観測の充実 |
明治18年(1885)6月30日〜7月2日に大洪水があり、これを契機に国から復旧工事費を福井県が受け、復旧工事を実施することとなった。そこで、翌19年(1886)12月に福井県では、河川水位を系統的に観測することとし、九頭竜川本川筋において藤巻、鳴鹿、森田、中角、岸水、三国の6ヵ所、日野川筋において家久、三尾野の2ヵ所、足羽川筋においては前波、福井(佐佳枝上町)の2ヵ所に量水標を設置して観測を開始した。このうち藤巻、中角、三国の3ヵ所は洪水時の水位のみを観測し、他の箇所では毎朝夕(午前6時と午後6時)の1日2回観測を行った。この水位観測によって、九頭竜川流域における水理研究が、一歩大きく前進することとなった。
さらに、明治25年(1892) 、内務省は全国大河川の調査および主要河川の測量に着手したが、福井県はこれを契機として、同年度より九頭竜川改修計画を立て、招聘された専門技師とともに調査に従事することとなった。この頃には量水標も増設され、三国については潮汐の感応があるので毎時の観測に変更した。また、この年初めて県庁構内に雨量計が設置された。さらに、同30年(1897)には第四区土木監督署により、九頭竜川本川筋の山岸
(下流左岸) 以下河口の突堤にいたる間に5ヵ所の洪水標を増設し、河川水位情報の収集と改修のための基礎データを得るために施設の充実が進められた。 |
(3) |
明治政府と福井県の治水への取組み |
明治28年(1895)および29年(1896)の相次ぐ大洪水は、九頭竜川水系に甚大な被害をもたらした。この洪水は、他水系においても大災害を引き起こした。
この洪水を契機にして明治28年(1895)第九帝国議会において、衆議院は九頭竜川を含む全国12大河川を対象に、政府財源を使って河川改修を進める決議をした。同時に、明治29年4月に河川法が公布されたので、同年6月には福井県知事から河川法第8条により、九頭竜川改修を明治30年(1897)度から直轄施工することを内務省筋に上申した。さらに、7月の臨時県会においては、次年度から改修工事に着手できるよう、さらに陳情を要請することを決定するなど、九頭竜川改修に積極的な取り組みがなされた。 |
(4) |
九頭竜川第一期改修計画 |
明治29年(1896)に河川法が施行され、明治31年(1898)3月には九頭竜川も河川法の適用を受けた。
内務省は、福井県より提出された設計および予算について、第四区土木監督署に命じて再調査を行わせた。同署は予算全体に更正を加え、足羽川上流福井市より足羽郡前波に至る約2里(約7.85km)間は、将来漸次改良の見込みがあるのでこれを追加編入した。
そして、内務省は、九頭竜川改修工事を明治33年(1900)度より同42年(1909)度までの10ヵ年継続事業とすることを帝国議会に提出した。内務大臣は同33年(1900)3月、河川法第8条に基づいて、同年度より国の直轄工事で施工することを告示した。
工事は、同年4月より第四区土木監督署が着手し、のち内務省名古屋土木出張所(第四区土木監督署を改称)において引継がれて施工された。起工以来7ヵ年を経過する頃には、築堤区間の過半以上が出来上がるなど、改修工事には目を見はるものがあった。同時に、保安林の編入および砂防の施設の完備をもって、改修工事全体を竣功する運びとなった。このようにして、内務省時代の九頭竜川改修事業は、種々の困難を克服しつつ数年にわたって施工され、明治44年(1911)に第一期改修工事を完了した。
第一期改修計画の基本方針は、霞堤や越流堤を解消し連続堤を築くこと、屈曲部の是正を図ること、河積拡大は川幅を拡張することで対処すること、河口部は川幅拡幅が困難なことおよび船の航行を考慮して浚渫にて対処すること、三国港と福井市とを結ぶ水運に配慮した低水路とすること、足羽川を明里〜水越〜大瀬において放水路を新設することなど、治水と水運に配慮した改修を実施することであった。
次に計画高水流量は、明治28年、29年の洪水の実測流量と流域の雨量との関係から推算して、次のとおり決定した。 |
|
九頭竜川(日野川合流点より上流) |
110,000 立方尺/秒 |
(3,058m3/s) |
|
九頭竜川(日野川合流点より下流) |
150,000 立方尺/秒 |
(4,170m3/s) |
|
日野川 (足羽川合流後) |
60,000 立方尺/秒 |
(1,667m3/s) |
|
足羽川 |
25,000 立方尺/秒 |
(695m3/s) |
本計画では、従来の最高水位であった三国町量水標の水位8尺(2.42m)および福井市量水標の水位13尺(3.94m)を両所の計画高水位として定め、その中間と上流および河口に適当な勾配をつけた。また、河幅は九頭竜川本川下流を300間(545m)、上流の森田付近で140間(255m)、日野川100間(182m)、足羽川の福井市下流で80間(145m)、その上流を80〜100間(145〜182m)とした。
九頭竜川本川は両岸堤防の増築工事を施し、日野川は掘削することにより河積の不足を補うこととした。足羽川は、水越地内において長さ13丁(1.4km)、明里地内において長さ4丁(0.4km)、幅員各80間(145m)の放水路を新設することとした。
新堤は、天端高を計画高水位より1.5mの余裕を見込み、足羽川の福井市上流のみ1.2mに定めた。九頭竜川は天端幅3間(5.45m)、日野川および足羽川両川は2間半(4.55m)として、法勾配は内外ともすべて1:2と定めた。しかし、福井市内の堤防は、従来からの道路兼用としての便を図るため天端幅を5.5mとした。 |
|